ピアニスト井口真由子オフィシャルウェブサイト:インタビュー

井口真由子ディスコグラフィー

元BOSE副社長
現有限会社KRT代表取締役
株式会社 ディーアンドエムホールディングス社長室 兼任
岡村有人(おかむら くにと)様

私にとって井口真由子というピアニストとの出会いは、約二年前に遡る。丁度私が音響のボーズ社副社長を退任し、世田谷に自分の会社を立ち上げたばかりのころであった。広島皆実高等学校音楽部一級後輩の小川圭一君を通じてご縁をいただいた。応援したいピアニストがいるので一緒に訪ねたい、といって私のオフィスに2人で訪ねてくれた時、まだ少女のようなあどけなさと固さが残る彼女の瓜実顔が、窓越しの冬の黄昏時の薄明かりに映えて、とても清楚に浮かび上がったことを覚えている。美しい人だ、というのが私の第一印象であった。

広島の皆実高校といえば、クラスメートだった吉田拓郎君、最近では陸上競技400メートルハードラーの為末大君が同窓生としてその名を世に知らしめた学校である。その話は機会を改めるとして、そんな小川君が、偶然にも私が住んでいる世田谷代田の家から歩いて数分の処に住んでいると知った時には、皆実高校を卒業して37年が過ぎていた。大変な驚きであった。10年近く住むこの地でよくぞニアミスすらしなかったものだと、奇遇な取り合わせとしか云いようのない偶然に私は唖然とした。即刻電話した向こう側からは、昔と変わらないバスバリトンのよく響く声が、懐かしくも長い時を超えて私の耳に飛び込んできた。たちまちにして彼とカルテットを楽しんだ青春時代の想い出がよみがえってきた。井口真由子さんを紹介いただいたのは、それから間もなくしてからであった。

いわゆる芸術で身を立てていこうとする者にとって、ストイックな求道的芸術家として生きるのか、あるいは生粋のエンターテイナーとして生きていくのかは、勿論その当の本人決めるべきことではあるが、私はほぼその人の身体から漂ってくる雰囲気、オーラに応じてそれはごく自然の成り行きとして決定されるように思う。ただし、求道的芸術家とエンターテイナー的芸術家との間に白・黒といったようなはっきりとした境があるわけではない。各々を左右の両端に持つ直線上のどこかに位置づけられることになる。
求道的であろうがエンターテイナー的であろうが、演奏家にとって舞台はまさにまな板であり、そこで演奏するピアニストは鯉である。全て舞台の上で裸にされる。実に残酷な話である。その一点の刹那的瞬間に過去に蓄積されたピアニストの生が集約されエキスとなって聴衆に降りかかる。オーラである。このオーラの質、多少、有り無しが芸術家、エンターテイナーの価値を決定することはいうまでもない。
井口真由子は、どちらの道を歩むのだろうか? 求道的か、エンターテイナー的か?結論から言うと、彼女はエンターテイナー的な華やかさを持っている。彼女の瞳の奥には未だ本人には見据えることができていない無限の真善美に対する憧れとその予感を感じることができる。確実に鍛えられたテクニークと頑固なまでの強靭かつ優しさをたたえた意志を伴って、エンターテイナーとしての資質を持ち合わせている。今後、彼女が更なる大人の女へと成長するに伴い、彼女固有の幅広いふくよかな感性に更なるデュナミークが加わって、われわれの心を溶かし、琴線を強く揺さぶってやまないエンターテイナーへと大きく進化することだろう。小細工は必要ない。特にこびる必要もない。優しく聴衆を包み込む自然体のオーラのみに集中すればよい。そうすれば必然的に受け取る側の聴衆が彼女を卓越したエンターテイナーへと育てるであろう。

もう一昨年になる、白寿ホールで彼女によるキース・ジャレットのケルンコンサートの再現を聴いた。大変に意欲的なプログラムで、彼女の求める音楽の哲学を見た思いがする。いつか彼女が更に大きなエンターテイナーへと成長した時、もう一度彼女の感性でデフォルメした彼女自身のケルンコンサートを聴いてみたい、そんな誘惑に駆られた演奏であった。その時に同時に聴いたブラームスのインターメッツォとバラードも大変に興味深かった。いわゆるブラームスの晩年の曲は、加齢とともに琥珀色の年輪を重ねた実にロマンティックな男の音楽である。女性が概して一瞬の刹那に生きることができる器用な動物であるのとは対照的に、男は過去の年輪を引き摺り束ねて、ある意味では不器用に生きようとする。人生の成熟と哀愁、満足と寂しさ、滅び行くものへの執着と若さに対する憧れ……。若い女性ピアニストの井口真由子がこれに取り組んだこと自体大きな驚きで怖いもの知らずとも思ったが、老年の男の感傷にのめりこむことなく、メッセンジャーとしてのピアニストの役割を見事にはたした。爽やかなブラームスであった。
山形交響楽団とのモーツァルト・ピアノコンチェルト第20番の協演ドキュメンタリー、加えて元レニングラード響主席トランペッター トカレフ氏との軽快な競演を聴くとき、優秀なソリストに有り勝ちな独善的排他志向ではなく、井口真由子は人恋しくアンサンブルを楽しむことができるピアニストであることがよく分かる。根っから音楽が好きなのであろう。最初のレリースとなったCDのソロアルバムポエジーでは、近代及び現代ものの映像音楽を中心に彼女のリリシズムが十分に浮き彫りになった。生粋の現代っ子の彼女の音楽が古典のスカルラッティとかガルッピなどのリリシズムへとつながるものを予感させるから不思議である。人間的成熟とともにまた彼女の音楽も進化する。当たり前のことであるが、楽しみである。

先日、終わったトリノオリンピック、日本はメダル絶望かと皆ががっかりいる時、荒川静香が、奇跡の滑りを見せた。折しも本稿の依頼を受けていた私の脳裏で荒川静香の舞と井口真由子の奏が二重写しとなった。荒川静香の舞に鳥肌を立てて涙を流したのは私ばかりではないであろう。彼女こそ最高のエンターテイナーであり、身体からの溢れんばかりのオーラで氷の会場を暖かく包んだ。淡い空色のコスチュームに包まれた彼女の身体があの会場の空気に溶け込んでしまいそうであった。辛辣なことで有名なアメリカの解説者をパーフォーマンスの間中黙らせただ一言、“She is a woman!!”と言わしめたという。これ以上の褒め言葉は無い、最高の賛辞であった。この奇跡の光景を目の当たりにして私は思った。女性の社会的台頭に反比例してフェミニンな女性固有の美に対する価値観は近年ずいぶんその価値を下げてきた。フェミニンの美というのはいわゆる一般的に云う美とは違う。私は男であるから特にそう感じたのかもしれないが、荒川静香に女性の美、女性の優しい強さを改めて見た。柔能く剛を制す、とても男性にはかなわない力である。もう一つ、技術だけでは芸術にはならない。技術は芸術を作り上げるための必要条件だが、必要十分条件ではない。技術を何倍も上回る全人格的な感性に基づく荒川静香の卓越した芸術性が奇跡のシアター空間を創り出したと云える。
全人格的オーラは分野を問わず、特に舞台芸術家・エンターテイナーには共通して要求される資質である。井口真由子は、そんなフェミニンな強さと全人格的オーラに裏づけされた、エンターテイナーとしてのおおいなる成長を期待できるミュージシャンだ。益々研鑽を重ねて、多くの人を感動させ、楽しませ、涙させて欲しい。既に、彼女はピアニストとしての自らのスタイルを確立している。温故知新、彼女自身既に実践しているように、色々な実験にもチャレンジして欲しい。バロック・古典と現代を結びつけるという彼女の試みも面白いではないか。楽しみである。

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